都市と対極にあるものに磨きをかける



黒川温泉は年間に約100万人の観光客が訪れる全国でも人気の温泉地だ。しかし、かつては閑古鳥の鳴く無名の温泉地だったという。そのなかで「新明館」の後藤哲也さんは、3年の歳月をかけて旅館の裏山をノミと金槌で削り、伝説の洞窟風呂を掘った。自然と調和する田舎の原風景に回帰し、もてなしの心に磨きをかけること。哲也さん独特の美学や理念は、地元の人々にも次第に浸透し、黒川温泉の景観や歴史を変える原動力となった。

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「旅館山河」を営む後藤健吾さんは、哲也さんの弟子の一人。「旅館山河」は黒川温泉の中心部から少し離れた森のなかにひっそりと佇む洗練された宿だ。自然が織りなす空間の心地良さや、どの角度から見ても絵になる風景の美しさに、訪れる人は心を奪われる。

30年前の黒川温泉は、個人の看板や、畳1〜2畳もあるような派手な看板が乱立し、駐車場は草だらけの殺伐とした風景だったという。昭和61年に旅館組合の組織が刷新され、若手メンバーを中心に環境班と看板班、企画班を結成。組合での植樹活動や入湯手形の発行が始まり、各旅館が連携して黒川全体を盛り上げる機運が高まった。黒川温泉を訪れた人々が気持ち良く散策できるように、組合でも公共の場所に植樹を始めた。「最初は旅館の敷地外なので、『なんでそぎゃんことばせないかんとか?』と思った人も、一緒にスコップで穴を掘り、汗を流すうちに作業が楽しくなる。自分で植えた雑木にも愛着がわくんです」。

さらに翌年には、個人の看板を一斉に撤去して共同案内板を作るなど、黒川全体を俯瞰した景観整備が本格的に動き出した。地域ぐるみで植樹を続けた結果、黒川は独特の風情が漂う温泉地に姿を変えた。

「黒川全体がひとつの旅館。点在するそれぞれの旅館が部屋や離れで、それらを有機的につないでいるのが雑木林です」。自然に溶け込んだ美しい田舎の風景こそが黒川温泉の原点であり、訪れる人々への何よりのおもてなしだろう。「都市と対極にあるものに磨きをかけること。風景も五感を過剰に刺激しないことが大事です。私たちもそういう生き方をしていかなければと思います」。

 

TEXT : MICHIKO TAKASAKI

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